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お弁当はバス車中で・・・
炊き込みご飯・紀州うめ鶏の照り焼き・卵焼き・
鮪の甘酢あんかけ・切干大根・金時豆 |
尾鷲 お魚いちば “おとと”でトイレ休憩 |
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お魚いちば “おとと”からバス移動10分。
柔軟体操後出発です。12時11分 |
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八鬼山越え地図 |
尾鷲南部の矢浜。
登り口を示す尾鷲節歌碑で曲がって林道へと進む |
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10分ちょっとで八鬼山越えの道石標が・・・登り口 |
100m置きに設置されている道標に01/63
距離6.3km ウォーキングレベル3です。 |
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山道の古道へと入っていきます。 |
古道から尾鷲の町並みを・・・
下部には沢山の太陽光パネルが |
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古道はすぐに石畳になってきました。 |
06/63位置 道幅も広く歩きやすい古道 |
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@行き倒れ巡礼供養碑 旅に出る人は心に悩みのある人や身体に病を持つ人が多かったため、急に様態が悪くなる巡礼もいた。安政大地震津波の5ヵ月後この地で倒れた、茨城県筑波郡伊奈町の人・武兵衛の供養碑だとか。 |
八鬼山山頂 2980m
110分の標識 12時50分 |
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急勾配になってきました。 |
石畳をちょっとアップで・・石畳は階段状ではなく
歩道に沿って上の石が下の石よりも少しずつ高く
なるように設置されています。 |
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古道の傍に龍のヒゲ |
勾配の急な石畳が続きます。キツイで〜す |
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これより上り約50mの区間は八鬼山越えの石畳の
中でも、施工当時の面影をよく残し敷石も大きく立派です。
幅約1.8m 13時05分 |
途中右端に大きな石が、踏むとコットンと
小さな音がするので、その音からコットン石と
名付けられています。 |
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12/63位置 視界が開けてきました。ここで小休憩です。 |
反対側の山斜面一面大石がごろごろ転がっています。 |
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駕籠立場・紀州藩主や巡見使などが街道を通行する
とき、乗っている駕籠を止めて休憩した場所右側に
樹齢300年の檜の大木が・・・今も昔も八鬼山越えを
する人たちを見送たであろう大木。 |
傍らの祠には小さな石仏が納められています。
石には「15丁」と「天正14年」「大湊」の文字町名を
兼ねた地蔵尊だそうです。400年以上昔に伊勢信仰を
広めて人々の真摯な思いが刻まれています。
(町石はここから) |
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急勾配の石畳を上ると・・・ |
14/63位置 不動明王立像が彫られた伊勢内宮
慶光院清順上人の供養碑があります。上人は
戦国期、諸国をまわって寄進を募り不安定な世情により
長らく中断されていた伊勢神宮の遷官を復興させた尼僧。 |
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石畳が途切れ、前方に橋が |
せせらぎが・・・ |
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すぐに二つ目の橋が・・・ |
せせらぎを一つ二つと跨ぎ・・・ |
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道標に八鬼山山頂まで2090m 80分
急勾配な階段状になっています。 |
林道交差点 国道311号線に通じる道に出てきました。
唯一リタイヤできる峠です。 13時40分 |
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全員そろって頂上へと進みます。 |
急勾配な石畳が延々と続きます。 |
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左側は渓谷のようです。
気持ち良い風が吹き抜けます。 |
道傍に行き倒れ供養碑が、
俗名 西武甚六と刻まれています。 |
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急勾配で滑りやすいので
皆慎重に上って行きます。 |
A 20/63位置 八鬼山越えの一番の難所 七曲がり。
13時57分これより上り280mの区間は石畳を敷き詰めた
九十九折の急坂が続く七曲がりです。 |
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とりつきには墓碑がたたずむ。
熊野の聖地をめざした巡礼たちの中には、
この峠越えで行き倒れた者も少なくない。 |
ジグザグにカーブしながら
急勾配を登って行きます。 |
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苔むした石畳は滑りやすいので要注意 |
しばし呼吸を整えてから・・・ |
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ちょっとだけ視界が開け尾鷲の向こうに
大台ケ原の山並みが姿を現します。 |
急坂を登りきると地蔵形の町石が迎えてくれます。
ほっ ここで標高は約340m |
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小休憩 汗ばんだ肌に心よい風が
吹き抜けていきます。 14時24分 |
小休憩後は、急勾配はゆるやかになり・・・ |
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平らなところは土道となっています。 |
25/63位置 道傍で見守る地蔵形の町石 |
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ゆるやかな石畳を山頂に向けて |
町石、かつては山頂までの五十町に置かれていたが、今は三十四体が残るのみ。これらを寄進したのは伊勢神宮の御師や伊勢市大湊の豪商たち。五十町石は当時の伊勢神宮の権威を示すものといえるそうです。 |
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八鬼山越えはほとんどが石畳になっています。 |
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桜茶屋一理塚跡一里塚は織田信長や豊臣秀吉が三十六町を一里として塚を築かせたといわれています。一里塚は旅人が目的地に到達する距離の目安になり馬や駕籠の賃金を支払う目安にされていました。 |
27/63位置を歩く |
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道傍で見守る町石の横を歩く |
先人達をも見守ってきた地蔵形の町石 |
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町石と蓮華石、鳥帽子岩手前の平石を蓮華石、後方の
縦長石を鳥帽子石。石の形がハスの花と鳥帽子に
似ていることからこの「名」が付いたらしい。 |
石畳の両脇には巨岩がごろごろ |
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ここを登りきると九木峠 |
31/63位置 九木峠到着 15時11分 標高522m
ここからは九鬼の町へと下る道も通じている |
九鬼村は九鬼水軍の発祥の地。当時村役場が道標を立てるほど、この道は沢山の通行者があったようです。
鉄道の開通まで、この峠道は「生活道路」として欠かせない道でした。 |
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九木峠、傍らには、四十一、四十二番目の
町石が佇んでいる。 |
九木峠から三宝荒神堂へと・・・ |
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尾根伝いに古道を・・ |
町石が見守る古道を・・ |
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前方に三宝荒神堂が・・ |
B 三宝荒神堂(日輪寺)到着です。15時37分 |
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お堂の中には「石像三宝荒神立像」がお祀りされています。この荒神堂は西国33ヶ所第一番札所の「前札所」として八鬼山越えの巡礼が道中の安全を祈って参拝したが、今は朽ち果てています。荒神堂の横には荒神茶屋が、昭和初期まで八鬼山を越える巡礼や旅人をもてなした茶屋跡がある |
堂の裏手には八鬼山に出没しては
巡礼たちを苦しめた山賊を退治したという
住職のお墓がありました。 |
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もうすぐ山頂のようです。ひと頑張り!! |
巨石の横を・・ |
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熊野古道 明治道(三木峠)と江戸道(八鬼峠)の
分岐点 標高627m |
江戸道へと進みます。 |
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やっと八鬼山山頂到着です。 標高647m
15時57分 出発から約4時間かかってます。 |
展望のよいさくらの森広場へと・・・ |
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あと少しでさくらの森広場 |
C さくらの森広場到着 16時09分 |
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熊野灘を望む 前方の一番高い山頂山 標高397m志摩半島から那智山までの大パノラマを
眺めることができますが木々が邪魔をして志摩半島は写真では見えません。 |
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さくらの森広場から江戸道を
十五郎茶屋跡にむけて出発。 |
急勾配なのでロープを持って下ります。 |
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根っこむき出しの尾根を進む。 |
47/63位置 ひたすら下る。 |
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50/63位置 |
52/63 十五郎茶屋跡到着 17時12分
この茶屋がいつ開業して、いつ店をたたんだかは
不明のようです。江戸時代の風土記には
「十五郎茶屋一件ありて」と記されているようです。 |
十五郎茶屋跡絵図 杉皮に石をのせた平屋建ての
建物の前では、紐でつながれた「飼い猿」に餌を
与えているのだろうか二人の旅人の姿が描かれています。 |

53/63位置 急勾配なので、前を行く人
皆カニ歩きになっています。 |
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55/63位置 山斜面の両脇はシダが茂る。 |
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56/63 位置 |
58/63位置では懐中電気が必要になってきました。
17時50分 |
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懐中電気で足元を照らしながら下る。
苔むしているため、ちょっと油断すると滑ります。 |
60/63位置 駕籠立場 写真を写していると
前を行く人の姿が見えません。 |
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滑らないように大急ぎで追っかけます。 |
八鬼山峠道の三木里側登り口到着 18時10分 |
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橋の先には、先に到着人たちが・・・ |
後から来る人を待ちます。 |
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集落を三木里海岸へと・・・周囲は暗くて何も見えません。 |
柄の一里塚も分からないまま、バスの待つ三木里海岸到着 |
波の押し寄せる音が聞こえますが海岸すら見えません。18時40分
約7時間弱で熊野古道一番難所を越えることができました。 自宅到着24時を過ぎていました。 |